2010年1月29日 (金)

祈りの島めぐり、五島列島の旅 (11)

昨年9月、旅仲間のSと共に訪れた五島列島では、列島西南寄りの福江島を中心に、久賀(ひさか)、嵯峨(さがの)、奈留(なる)と、“下五島”の島々を次々と渡りながら、はるか昔に日本に根付いた“キリシタンの祈り”を探して、教会めぐりを重ねたのだった。

本来、人の心を救済する筈の「信仰」が、往時の為政者の下、異物(異教)排除の迫害と激しい弾圧を生んだ。

結果、多くの殉教者を出し、その最期の惨たらしいことこの上なく、≪人は、同胞に対してどれだけ残酷になれるのだろうか…≫、そんな事を度々心に問う旅となった。

何より驚嘆を覚えたのは、日本のこんな西の端っこに、これほど多種多様な教会を擁した島が在ったという事だ。

訪れるまで皆目知らなかった“教会列島”の五島に、多くの迫害と弾圧の中でも滅することなく、今日まで引き継がれた信仰の根深さを見て、信ずるところのモノというのは、どんな外圧をもってしても取り上げられるものではない事を、しかと感じ入ったのであった。

Kamigotohmap3Kamigotohmap2そんな下五島を経て、いよいよ上五島観光である。

大小二つの「中通(なかどおり)島」と「若松島」からなる上五島は、島民の悲願とも言われる「若松大橋」で陸路結ばれており、どちらからの上陸でも構わなかったが、レンタカーの利便性から中通島(奈良尾港)を選んだ。

〔地図左:上五島全体図/右;上五島南部、奈良尾地区と若松地区拡大図〕

先に福江島でも見た巨木の“アコウ樹”や、米山(こめやま)展望所でリアス式の複雑な海岸線を遠望してから、いざ怒涛の教会めぐりを始めた。

時計は既に15時を回っていたが、夕陽に向かって走る子供のように、行けるところまで西へ西へ…という感じだった。

このとき訪ねた教会は以下の通りである。 

「高井旅(たかいたび)教会」、「福見教会」、「若松大浦教会」、「中ノ浦教会」、そして「土井ノ浦教会」。

Img_1099cImg_1104c「高井旅」は当初、訪問予定に入れていなかったが、その変わった名前に心惹かれて立ち寄ることになった。

外観は、白壁に真っ赤なトンガリ屋根の近代的な教会で、一見、私たちが求める“隠れキリシタンの痕跡”は望めないと思ったが、教会の説明看板には、“徳川幕府のキリシタン迫害が厳しかった1850年ごろ、長崎より安住の地を求めた3家族が小舟で五島灘を渡ってきて始まった”旨、記されていた。

深く沈黙を守って信仰を通したこの地域の隠れキリシタンが、信教の自由の下、その“隠れ”をかなぐり捨てたのは、昭和も13年が過ぎた1938年頃のことだという。

当然、代替わりもし、信仰の裾野も広がっただろうが、その時、信仰復帰を果たしたのは100名にも上ったというから、この高井旅地区とは、実に長い間、大勢で潜伏を誓った根強いキリシタン集落だったと言えよう。

Img_1103c素晴らしく澄み渡った空に、一筋の雲が道のように連なり、両手を広げるイエス像、そしてこの高井旅教会へと続いているように見えた。

それは、信仰を貫き通した信徒の歴史を象徴しているようで、何とも印象的な光景であった。

さて、次に訪れたのは「福見(ふくみ)教会」だった。

高井旅から1kmも離れていない、すぐ東隣に建つ教会で、こんな近くに隣接するのが不思議な感じだったが、集落ごとに教会を持つのが信徒の悲願だったのだろう。

先の教会に比べ、その外観は創建往時を偲ばせる赤レンガ造り。歴史そのものを滲ませた「天主堂」の文字に、この教会にも多くの物語が語られているに違いない、そんな思いを抱かせるのだった。

Img_1125cImg_1129p説明看板や諸々の資料に拠れば、此処もまた江戸時代にキリシタン迫害から逃れてきた5人の移住者によって始まった信仰集落とのことだった。福見地区は現在も住人の98%がクリスチャンというから、実に敬虔である。

それでも他所から移住してきたキリシタンは、当初、島の先住の人々にとってはお荷物だったようである。

或る時、代官や先住民らが結託し、「幕府の手入れがあるぞ!」とキリシタンらに嘘を吹き込んだという。

慌てた移住者たちは、シケにも拘らず、着の身着のまま海へ逃げ出し、“帰らぬ人”となった。それをよい事に、隠れキリシタンらの家財や家畜を根こそぎ奪い取った…、そんな悲劇も語られているのだ。

多くの隠れキリシタンが、締め付けを苦に神道に改宗していく中、この地では殆どの住人がその信仰を棄てずキリシタンに帰依、一途に祈り続けたのは、こうした先達の悲劇の上に築かれた集落だったからなのだろう…。

教会は、明治15(1882)に創建。しかし二年で大風の為に倒壊し、次に再建が叶ったのは大正2(1913)の事だという。再建の許可や資金面で、大変な苦労があったということだった。

Img_1133p中に入って驚くのは、天井の建築様式だった。

この外観からは当然、柱とアーチのリブ・ヴォールト天井(コウモリ天井)だと思ったが、船底のような「折上げ天井」という造りだった。

「アーチじゃないんだ…」と意外な印象であったが、壁面の窓と祭壇奥の天使のステンドグラスが異国情緒を醸し、しばし、そこが日本である事を忘れた。

一説には、創建当初は、ヨーロッパの教会建築を模してコウモリ天井だったが、再建時に「折上げ」になったと言われているが、定かではない。

堂内から出ると、空一面に広がった鱗雲が秋の訪れを感じさせた。

Img_1144c_2

Img_1152p次は、「若松大浦教会」である。

同じ歴史を語りながらも、異なる時代の立派な教会を二つ見てきた後には、この木造単層の教会は実に質素なものであった。

大正15年に民家を借り受けて聖堂化したという教会は、屋根に十字架が無ければ、ちょっと見過ごしてしまう。

しかし、そんな小規模な教会ながらも、周囲に敷かれた玉砂利に雑草は無く、多くの手がかけられている様子で、ひなびた中にも信徒の方々の愛着を強く感じる教会だった。

Img_1178cImg_1185cImg_1175c此処には10分ぐらいの滞在で、すぐ次の「中ノ浦教会」へ向かった。

上五島に来てから、見事なコウモリ天井の教会を見ていないが、代わって「折上げ天井」といわれる“船底”様のものが多く見られ、その折上げの代表的な教会がこの中ノ浦であった。

列柱の上部、折上げになっている部分に、五島を代表する花の「椿」が漆喰で描かれているのである。

天面にも椿が描かれ、地は淡いピンクで塗られている。実に乙女チックな印象…と思ったら、この教会の主たる保護者(神社で言う御神体のようなもの)は“乙女、聖マリア”だった。

なるほど、やわらかな女性的イメージが満載な訳である。

Img_1182pImg_1192c創建も大正14年で、それまでの“信仰の自由”ばかりを求めた時代からはひと波過ぎ、ただひたすらにヨーロッパをお手本にした教会造りから、五島独自の祈りの場としての意匠を凝らしたくなった頃なのだろう。

キリシタン迫害の悲壮感は既に無く、中ノ浦教会は全体として瀟洒な優美さに満ちていた。

中ノ浦の畔に建つこの教会は、対岸から眺めると、水面にその姿を映して美しいといわれるが、あいにく風があり、綺麗に眺めるコトができなかった。

時間が許せば、改めて来ることにして、暗くなる前に一路、若松島へと渡った…。

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2010年1月23日 (土)

ムンクブローな日々

五島列島の続きに入る、その前に…ちょっと雑談。

20101120100102_13_37_16年末年始、なんだかずっと台所に立ちっ放しだった気がする。

お節料理を準備するのは、本来、新年ぐらいは台所仕事をせずにゆっくりと…というコトらしいが、姉一家が来たり、来客があったりとなれば、七草頃まではなかなかそうも言っていられない。

尤も、家事の中では「料理」が一番好きなので、「千客万来、大いに結構!」なのだが、作って、飲んで、食べて、喋って、片付けて、時に、ちびっ子のお相手まで…の“フルコース”となると、日常、爺さまと仔犬一匹の暮らしの私には、些かオーバーワークになる。

「成人の日」の三連休辺りから、一気に気力も失せて、電源OFF状態になった。

と程なく、爺さま(父)が手の関節手術のために入院。

病院への行き来はしたものの、三度三度の食事を欲しがる人も居らず、私は完全に休眠状態に入った。

まぁ…、景気の悪い時代、「ART」なんてものは日常から最もかけ離れたところに置き去られるシロモノで、写真の仕事は“開店休業”。

何も考えずに、愛犬のムンクブロー君の生活リズムで部屋に籠ったのだった。

DreamchristmasMunkbro4cL04a0023c_2ミニチュアダックスフントのムンク坊は、昨年4月に我が家にやってきてから、大禍なく元気に過ごしている。

我が部屋にも十二分に順応し、もはや部屋の主はどちらだか分からない。

父が不在の数日間は、普段は連れて行かない階下のリビングにも降ろし、自由にしてやった。

おなかが空いたら餌を食べ、気が向かねば一日中、何も食べない…という偏食、わがままなムンクブロー。

ジャーキーや犬ガムといったおやつだけの日もあって、そんな日は私も、ジャンクフードだけで済ませた。

Munksanpoこの犬、犬のくせにお散歩が嫌い。(…というか、外を歩くのが怖いらしい。)

外ではオ○ッコも、ウ○チもしない。我慢して、帰宅直後にお部屋のトイレで用を足す。(゚Д゚;∬アワワ・・・

(外でやってくれれば、どれだけ楽な事か。(*´д`;)…)

 

無理に連れ出せば、途中で決まって私の足の甲に座り込み、テコでも動かない。

結局、5kg弱の犬を抱っこして歩いているのは私…(´д`)ギャフン! 

全く、誰のための散歩だか分かりゃしない。(写真は夏のお散歩)

止むを得ない外出の時は、自転車のカゴの中がムンクブロー君の指定席になった。

風を切って、垂れ耳をなびかせているのはどうやら楽しいようで、やおらカゴの中で立ち上がると、進行方向を見据えて、「それ行け!遅いぞ~!」と言っているように、時々振り返る。

 

L04a0017c_2Munkbro5c_3Munkbro6p_2Imgp4122p_3犬にこき使われるのもしゃくなので、父の見舞い以外は殆ど外出もせず、お部屋でマッタリ、クッタリ…、“ムンクブローな日々”を過ごした。

1週間もあっただろうか…。

呆気なく手術の終わった爺さまも無事に退院し、またルーチンな日々が戻ってきた。

 

今はもう、一月も三分の二が過ぎてしまった。

年々、「行く年、来る年」の境目がぼやけ、気が付けば、なんとなく年を重ねる中年女になっていた。

なんか、今、とってもダメな気がしている…。(´・ω・`)ショボーン

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2010年1月22日 (金)

遅ればせながら…(^^ゞ

久しぶりの更新になりました。

2010年、つつがなく新年を迎えてから、早いもので3週間が経過…。

世の流れに反して、些か長すぎた“年末年始休”でしたが、そろそろ活動開始!と参ります。

 

今年も、“気まぐれ&拙い”戯言ですが、宜しくお付き合いの程、お願い申し上げます。

…*………*………*………*………*………*………*………*………*…

 

さて…、“だと思った…think ”の声が聞こえそうですが、

『祈りの島巡り、五島列島の旅』は、上五島地区の話題を残して越年してしまいました。

あまりに印象的な五島列島の日々に、いささか微細に入り込みすぎた感の遅筆でして、上五島はハイライトをサクサクッと…を目指しております。

が。どうなることやら…。

 

≪旅行記ばかり、もういい…≫との御仁もおありでしょうが、せめて自身のブログの中ぐらい、「初志貫徹」といきたいので、今しばらくお付き合いください。

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2009年12月22日 (火)

祈りの島めぐり、五島列島の旅 (10)

Img_1038cImg_1053cImg_1055c奈留島には、江上教会のほか二つの教会が在った。

一つは島の主任教会である「奈留教会」(写真左)。もう一つは島の北部に在る「南越(なんこし)教会」(写真中)である。

 

いずれも相ノ浦湾に面しており、前者は湾の奥、奈留島の中心地に1000坪を越す敷地を有して堂々と建つ、鉄筋コンクリートの“昭和の教会”だった。

一方後者は湾の入り口…、水ノ浦の岬の突端で、小さな漁村を見守るように建つ木造単層の素朴な教会である。屋根に十字架が掲げられていなければ、それが教会だと俄かには分からない規模だ。

Narumapこのように、一見、対照的な二つの教会だが、いずれも奈留島の北沖合に佇む“葛島”の影響を受けて建てられたもので、葛島の歴史抜きには語れない教会であった。

現在の葛島は、昭和48年に最後の島民が離島して、完全に無人島となってしまったが、江戸時代からキリシタン迫害の嵐を逃れて上陸した人々によって開拓されてきた島だ。

これまでも度々触れてきた過酷なキリシタン迫害だが、五島列島のあちらこちらで多くの殉教者を出しながらも、幸い奈留島には迫害の波は押し寄せなかったようである。

そんな奈留島の、更に北の孤島(葛島)へと逃れたキリシタンたちは、密やかながらも自由な信仰を抱いて、日々を過ごすコトが出来たそうだ。

迫害激化の明治初期に、葛島では既に民家を改造した聖堂が建てられ、この「葛島教会」が主教会として、奈留島の信徒らに巡回ミサを執り行っていたという。

そんな葛島に近かった南越(=水ノ浦地区)の人々は、櫓漕ぎの伝馬船に乗って瀬を渡り、祈りを捧げていたというが、台風や季節風の影響を受けやすい五島の海で、その信仰の維持は大変な苦労を伴った事だろう。

加えて葛島からの移住者も少なくなかったこの地域で、自らの聖堂を求めた機運は想像に難くない。

こうして岬の突端に建設されたのが南越教会だったというわけである。

当時は地区名から“水ノ浦教会”と呼んだようで、資料によっては名前が混在し、些かややこしい…。

ところで、キリシタン迫害の波が届かなかったという葛島は、裏を返せば泰平の今、“離島のまた離島”で生活の近代化も及び辛かったといえる。

海がしければ物資の供給はおろか、島から出る事もままならなかった絶海の孤島は、信教の自由が担保された時代に、もはや暮らしづらさだけが際立ったのかもしれない。

昭和48年、葛島の無人島化の完了に伴い、葛島教会も廃堂されたが、それは島の終焉というより、真の意味での自由信仰を勝ち取った結果だと、旅を振り返る今、強く感じるのである。

こうして葛島から大量の移住者を受け入れた奈留島の中心地に奈留教会が建ったのである。

余談だが、当時は此処も、地名から“相ノ浦教会”と呼ばれていたそうだ。

Img_1052cImg_1041c日本のカトリック信仰にとって、実に草分け的な孤島だった葛島の信徒を労う如くに建つ奈留教会は、広大な敷地に華やかなステンドグラスを連ね、屋根には鐘楼の尖塔を戴く豪奢な造りである。

傍らにはルルドまで在って、五島の教会群の“イイとこ取り”といった風情に、時代背景を知らないと、些かの満腹感を覚えるが、それでも白が基調の堂内はシンプルさが心地よく、暑い中をやって来た私たちにとって一服の清涼剤となった。

やはり教会とは、精神的癒しを持つ場だと実感した。

Img_1060cImg_1057c私たちの奈留島での教会探訪は、南越教会が最後だったが、ガードレールに魚網を干す、長閑な漁村の民家を抜けて、山腹まで階段を上った所に在った。

草いきれがむせ返るような階段を上り詰めてようやく辿り着く南越教会は、江上教会同様、堅く扉を閉ざしていたが、Sも私も、≪此処は別に開けてもらわなくていいね…≫と、暗黙の意思疎通があって、外観をしばらく眺めて写真に収めると、もと来た階段を下りていった。

 

元々、隠れキリシタンの時代、葛島へ渡れない時には民家にこっそり集い、俄か仕立ての祭壇に密やかな祈りを捧げたに違いない。こういう極めて小規模な教会こそ、その頃の風情を色濃く残しているのだろう。

そう思うと、素朴さで締めくくった奈留島の教会巡りは、不思議なほど信徒の心に近づける清々しいものであった。

Img_1066c_2南越教会を立ち去り、しばし走らせた車のサイドミラーに、山腹の南越教会が私たちを見送るようにポツッと映った。

「あ、」とSに車を止めてもらって、名残の一枚を写真に収めた。

この後、往時の豪族、奈留氏の山城が在ったといわれる城岳展望所へ寄ってから、昼過ぎの船で奈留島を離れた。これで下五島地区の観光が終わった。

五島の旅も終盤、いよいよ上五島地区(若松島、中通島)への上陸である。

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2009年12月12日 (土)

祈りの島めぐり、五島列島の旅 (9)

Img_1033cImg_0998c奈留島の千畳敷を楽しんだ後、いよいよこの島のハイライト、「江上(えがみ)教会」へ向かった。

西の大串湾に面して建ちながらも、海が近いことをあまり感じさせない鬱蒼と茂る木々に包まれて、その教会は建っていた。

大正67年頃の建設。左右対称、切り妻屋根に上部半円の窓を持つロマネスク様式の木造重層建築には、鐘楼を戴く尖塔も、屋根の上の十字架も無く、教会というものの“形”の概念を打ち壊す。

それでいて、クリーム色の壁面に、窓枠・鎧戸だけが空色に塗られた色あわせはとても優しく、まるで絵本から飛び出したような可憐さで心を捉えて離さなかった。

逸る気持ちで教会に近づき、思わず「あっ…」( ̄□ ̄;)!! と落胆した。

なんと、聖堂入り口には、南京錠がしっかり施錠されていたのである。

誰にでも門戸を開けている(…と思っていた)教会が、常時開放ではなかったことに意外な一面を見た思いだった。 

江上教会はそもそも、明治後半に長崎本土から渡ってきた、僅か4世帯のキリシタンらによって始まった祈りの場である。大正時代には、信徒60名を数える大きなキリシタン集落の中心的存在となったものの、沿岸の土地は、所詮、農地には不向きで、加えて漁業の衰退が追い討ちをかけ、相次ぐ離島民を生んだそうだ。

結果、1990年代に入って信徒数が3世帯15名と激減。発祥当初の数すら割り込んでしまったのである。

現在も過疎化の流れは止められず、信徒はたったの“2世帯”。その衰微ぶりは、教会の存続自体が危ぶまれるほどで、こんな沿革から鑑みても、一時の隆盛はともかく、教会機能としては非常に“私的”な存在だと感じられた。

なので、施錠は止むを得ず、といったところだろうか…。

現在、江上教会は、島中央の「奈留教会」の管轄下に置かれている。

此処までの道中、その奈留教会を通り過ぎてきただけに、またもや回訪順を考慮しなかった迂闊さが悔やまれたのだった。

尤も、旅先での出来事は、天気もアクシデントも全て、その時々の“縁”、“巡り合わせ”だと思う私は、門を閉ざされば、それはそれで強いて誰かに鍵を開けてもらう必要は無いと考えていた。

ただ、如何に日本国内と雖も、そう訪れることもあるまい五島列島で、文化財であり、世界遺産の暫定リスト入りまでしている江上教会を外観しか眺めなかった…では、あまりに残念! そんな気分だった。

こんな風に、どちらかと言えば受動的な旅を好む私とは対照的に、行動派のSは、気が付いた時には既に奈留教会と連絡を取っており、程なく、近所の女性が鍵を持ってやって来たのだった。

まぁ、連絡さえすれば開けてもらえる…、ただそれだけのことだったが、この旅の“縁”は、かつての旅で知り合ったSと今、一緒に旅をしているコト自体が巡り合わせそのものだったのかもしれない。彼女の活躍に、ふとそんな事を思っていた。

さて、開錠してくれた女性は、「帰る時、また施錠していって下さい」と言い残して立ち去ったが、旅人が訪れる度に呼ばれるのではさぞ面倒だろうに、それでも開放しておくわけにはいかないこの江上教会とは、やはり精神的に信徒さんたちの“私物”なのだと強く思った。

Img_1003pImg_1006pこうして、連れに恵まれて中へ入るコトが叶った江上教会は、その雰囲気に思わず嘆息が漏れた。

聖堂内を形作る木の梁が、得も言われぬ温もりある優しい景色を作り出していたのである。

特定の信仰を持たない私であるが、教会が人々の心の拠り所で、そこへ来れば癒される…という精神活動だけは、この時はっきりと実感した。

〔写真:「天主堂」の文字が掲げられた聖堂。なんとなく、薬局をイメージするのは私だけだろうか(笑)/教会周囲にはたくさんのサワガニ?がいる。エビも産卵期にはたくさん出てくるそうである〕

ここも教会建築の第一人者である鉄川与助氏の手になるもので、4分割のリブ・ヴォールト天井に施された木のアーチが無数の半円を描き、深い奥行き感を醸していた。

外観の可憐さとは異なり、華やかなステンドグラスなどは一枚も無いが、それでも贅沢なまでの風雅な情緒を感じたのは、木材全面に現れた木目模様のせいだろう。

Img_1032cImg_1032pp当初、この木目が天然モノか人為的に付けられたデザインなのか、触っても凹凸が無く、私には皆目分からなかったが、教会の説明看板に「木目塗りの珍しい装飾」とあって、≪人為的なもの≫と思うしか無かった。

それぐらい、極自然に施された装飾は、正に“一見の価値”であった。

無信教が故に、信徒さんの手を煩わせて、鍵を開けてもらうことに幾ばくかの心苦しさを抱いていたが、やっぱりこの教会だけは開けてもらって中を見てよかったと、純粋にSの行動力に感謝していた。

勿論、鍵を開けてくれたおばさんにも、であった。

ところで、この江上教会については後日談がある。

帰宅後も、「木目塗り」といわれるあの柱の模様が気になって仕方がなかった。

天然の木目を活かした工法なのではないか…、いや、それとも全てが人為的に刻んだ模様なのだろうか、だとしたら、それはいかなる技法なのか…等々。

そこで、思い切って管轄の奈留教会に、メールで質問してみることにした。

すると、一両日の内に、信徒で、江上教会の修復にも携わったという大工工房を営んでおられるK氏から、返信を頂戴した。

結論から言うと、やはり人為的に施した模様で、違う色の塗料を幾層にも塗り上げ、最表面だけ、乾き切らない内にスーッと削り取り、下層の色を出すのだそうだ。

江上教会の柱の本数、模様の繊細さなどを思うと、その作業は非常に根気の要るもので、それでいて、乾き切らない内にやらねばならないコトを思うと、超絶技巧と称してよいだろう。

工法を知ってから眺めるその写真は、正に“驚き”を写しこんだもので、改めて、江上教会の聖堂内に入れた喜びが甦るのだった。

それにしても、旅行中、しばしば感じていたのは、五島の人々の“親切“だった。

このK氏からのメールも、チョコレートケーキのデコレーションを引き合いに、写真まで添付して丁寧にその工程を説明し、正に“五島気質”とでも言おうか、とにかく親切であった。

Imgp3884c_2Imgp3883c_3Imgp3887c_3このメールがきっかけで、幾往復かのやり取りをした後、「奈留島来島の記念に…」とプレゼントが届いた。

それは、大工であるK氏がその技術を活かして、ご兄弟たちと共に端材で作ったという“携帯ストラップ”だった。

「五島は椿の産地なので、今回は椿を材料に使った…」という江上教会を模ったものなど3種類、友人Sの分まで含めて6つのストラップが封筒の中一杯に詰まっていたのである。

初めに質問をしたのは私の方だった。だのに、丁寧な回答のみならず、最後にはプレゼントまで贈って下さる優しさにビックリした。

「旅は縁」などと簡単に口にしていたが、私がそれまで思っていたものは「遭遇」に過ぎず、訪問地への忘れがたい記憶を伴って初めて、その関わりが“縁”になることを実感した。

五島列島の真ん中に位置する奈留島は、日々の暮らしの中では非常に遠い所である。が、日々向き合うパソコンの脇に吊るしたストラップが、今も鮮烈に江上教会の可憐な姿を思い出させる。

いつの日かまた、きっと訪ねたい想いで一杯である。

 

〔写真:贈って頂いたストラップ。江上教会底部には名前と訪問日を焼きいれてくれた。/アジの開きと包丁というユニークなモチーフ。とってもお気に入り。/椿の輪切りを水にひと月近く浸し、磨き込むとスベスベの石のようになるそうだ。ペンダントヘッドとしても使えそうな逸品。〕

 

xmas信徒さんらによる、江上教会の修復の様子が掲載されています。ちょっと感動的です。

http://www9.ocn.ne.jp/~catholic/syuhuku/index.html

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2009年12月 4日 (金)

度々、途切れまして…

一話綴っては長々休筆し、五島列島の旅話が悪戯に長引いていますが、そんな中、時折、当ブログにコメントを付けて下さったり、どうしているのかお尋ね下さるメールなどを頂戴し、誠に恐縮しております。

年内、あまり押し迫らない内の脱稿を目指しています。

読者の皆様には、脈絡もぶつ切りになってしまいましたが、お時間許す限り、お付き合い下さい。

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2009年11月18日 (水)

祈りの島めぐり、五島列島の旅 (8)

出航にざわめく漁船の音で目覚めた奈留島の朝は、雲ひとつ無い快晴だったが、見た目に反して蒸し暑く、この日もかなり暑くなる事を覚悟した方がよさそうであった。

旅館前でレンタカーの配車を待って、8時には島の南を目指して出発した。

火山から成る五島の島々は相変わらずアップダウンが多く、軽自動車は上り坂で実に非力だった。

上り坂にさしかかる度に減速するSの運転をみて、私はてっきり彼女がふざけているのだと思ったが、豈図らんや、大真面目に目一杯のアクセルを踏んでいる。それでも時速20kmを下回る現実に驚いてしまった。

以後、上り坂ではクーラーを弱めるか、完全に止めてしまうかするのが、助手席に座った私の役割となった。

この日、奈留島観光には正味4時間を充てていた。

リストアップした見所は3つの教会を含めて5箇所。これぐらい時間があれば十分だろうと、1250の船で奈留を去る旅程を立てていた。

移動手段が船しかない五島の島巡りで、時間厳守は必定。クーラーを止めてでも、とにかく疾駆することに傾注したのだった。

こうして到着したのが、舅ヶ島(しゅうとがしま)海岸だった。

≪変わった名前…≫と思った御仁も多いだろう。“姥捨て”的な謂れでも有るのかと思ったが、地名の由来をどんなに調べても、唯一“名前の由来は不明”という記載に行き当たっただけで分からなかった。

此処に限らず、五島には「はて?」と思わせる地名が時折登場して、正しく読むだけでも苦労したものだ。

さて…、そんな珍名の海岸には「千畳敷」と呼ばれる景勝地があった。

Img_0995cImg_0986cImg_0971cImg_0954p先にも別の島(嵯峨島-さがのしま)で「千畳敷」と名の付いた景勝地を見ていたが、“畳が千枚も敷ける”という語義どおりのだだっ広さでは、この奈留島の千畳敷が正に“言いえて妙”であった。

何しろ、驚くほど直線的且つ平坦な岩棚が、海中に浮かぶ小島まで連なっているのである。

〔写真左から:舅ヶ島海岸から向かいの小島まで連なる千畳敷を遠望/千畳敷の平坦な大岩/大岩までもが十字を切る?!祈りの島らしい千畳敷(笑)/大地のような岩棚に、ヒビ割れと隆起した筋が入る不思議〕

Img_0958pImg_0965c_2Img_0959cImg_0982p海は素晴らしく澄み渡り、真っ青に輝く小魚の群れが見える。あまりの美しさに、思わず崖の突端までにじり寄って見下ろしたが、後日、写真で見るとかなりキワドイところに居たものだ…。

そんな視線の先には、プカプカと烏賊が泳ぎ、見る目を楽しませてくれた。

ところで、ふと視界を海全般に広げてみると、海底に沈んでいる岩々が、あたかも古代ローマ遺跡の倒壊した円柱のように見えてくるのである。(写真3枚目)

ひと度そう見えてしまうと、もはや千畳敷の平坦な岩棚も、そしてそこいら中に転がる岩の一つ一つまでもが、人為的な建造物の残骸…、とりわけ古代神殿の柱頭飾りのように見えてくるから不思議だった。(写真4枚目)

結局、どんなに斬新なフォルムの人造物であっても、また古の遺構であっても、人の発想というのは土台、自然の造形の中からしか生まれないと言う事だろうか…。

 

Img_0988c_2そんなことを考えながら、大岩を登ったり降りたりしているSに「そろそろ次へ…」と声を掛け、再び舅ヶ島海岸へと戻った。

嵯峨島の千畳敷もそうであったが、火山岩が生み出す五島の海岸の奇観は、居ようと思えば一日中散策していられそうで、つくづく、タイムリミットの無い旅をしたいものだと思うのだった。

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2009年11月12日 (木)

しばらく休みました

五島列島の旅物語、『祈りの島巡り』をしばらく休止しました。

久しく絶好調でしたが、季節の変わり目…、持病の喘息、背部痛に悩まされ、今ひとつ集中力に欠いておりました。

奈留島まで渡ったところで話が途絶えておりますが、この後、上五島の若松島、中通島へと移って行きます。

五月雨更新ですが、宜しかったら時折、覗いてみて下さい。

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2009年10月28日 (水)

祈りの島めぐり、五島列島の旅 (7)

Img_0851p福江島での、教会めぐりのラストスパートは「浦頭(うらがしら)教会」から始まった。

このあと訪ねた「堂崎(どうざき)教会」と見学順を入れ替えれば、この教会の沿革がより鮮明になったのだが、地図上、近いところから攻めていったので、先に現れたユニークな外観めがけて、崖の上の教会へと向かった。

この浦頭教会は、老朽化した堂崎教会の後を継ぐ形で昭和43年に竣工されたものだった。

堂崎でのミサを知らせるホラ貝の音が止み、その小教区が廃止されると、今度は地域一帯の信徒が集いやすいよう、初期の仕事を創出、教区の中心地に浦頭教会が建ったのである。

そしてこの浦頭の完成を以って、五島におけるキリシタン信仰発祥の地だった堂崎教会は、その役目を県の文化財へと変え、常駐司祭の居ない巡回教会となった。

浦頭教会のユニークな形状は、『創世記』の“ノアの箱舟”を象り、<信仰の復活>を讃えているとのことだった。

このことは、堂崎教会の意義を知れば、その後継者たる浦頭の在り方も自ずと分かるのだが、そもそも外観に魅かれて立ち寄ったような訳で、全体像を眺めると、その近代的な教会に然程興味も無く、サクサク見学して10分足らずで立ち去った。

Img_0860cでは、前身の「堂崎教会」は…というと、五島のキリシタン史を語る上で、決して素通りできるような教会ではなかった。

堂崎は常に五島の教会群の“表紙”とも言うべき存在で、明治6年の禁教解除以後、真っ先に長崎本土から宣教師が渡ってきて、布教と社会福祉に尽力した、キリシタン復権の出発点だったのである。

後継の浦頭教会が<信仰の復活>を讃えているのもうなずけるのだ。

〔写真:堂崎教会と教会設立に尽力した宣教師の銅像〕

Img_0867c長崎本土からやって来た宣教師は、潜伏信徒の発見と布教の傍ら、明治初頭の漁村、農村の、その貧しさから間引かれる子供たちの悲劇を知ると、孤児・貧児らを引き取り、養護施設を設立する。次いで、その子供たちの面倒をみるべく、保母さんの育成をする一方で、そうした善意の独身女性たち(尼僧)のために修道院まで併設することとなったのである。

当時はそれを「子部屋」「女部屋」と呼んだそうだが、方や「奥浦慈恵院」として、そして「お告げのマリア修道院」として、現在まで(場所こそ移転すれども)各々継承されているのは立派な事だと思った。

教会が信徒の心の拠り所であるのに加えて、弱者救済という形で社会貢献する姿は、信仰本来の在り方を説く大いなる鏡となったことだろう。〔写真:堂崎教会の前庭に置かれた、クルス地蔵。隠れキリシタンたちが聖母マリアに見立て、密かに拝んだと言われる。〕

Img_0864cImg_0873p五島出身の殉教者で、日本の二十六聖人の一人であるヨハネ五島(写真左)に捧げた堂崎教会は、五島初の本格西洋建築ということで、ヨーロッパの教会建築技法に忠実に作られていた。

イタリアから取り寄せたレンガを積んだゴシック様式に、4分割の漆喰、リブ・ヴォールト天井(コウモリ天井)で、アーチを形作る柱(リブ)の一本一本が、それまで見てきた教会より幾分細い感じがした。そのせいか何処となく繊細で、堂崎教会が背負ってきた骨太の活動に比べると、意外なまでの優美な女性的イメージを感じる聖堂であった。

尤も、此処に写真を掲示しているのは可笑しな話で、堂内は博物館のため撮影禁止だった。

うっかりシャッターを切った一枚…ということで、しれっと公開しておく。教会めぐりで入場料(300)が必要なのも此処だけだった。

Img_0882cImg_0883c初日、久賀島へ向かう船からも見えたこの堂崎教会は、驚くほど清らかに澄み切った奥浦の内海に静かに佇んでいた。

美しすぎる光景の背後に、キリシタン迫害の惨禍があったのかと思うと、なかなかササッとは立ち去り難く…、結局、堂崎教会に小一時間を費やすこととなった。

重く陰惨な歴史を孕んだ跡地が、今はとっても美しい…というのは、どこかポーランドで見たアウシュビッツやマイダネックの強制収容所跡に似ていた。

多くの人の血を吸った大地とは思えぬ青々とした芝の草原、真っ赤なレンガの収容施設、そんなものが本当に美しいのである。

そんなことを話しながら、Sと向かった次の教会は、「宮原教会」だった。

Img_0897pImg_0899c福江島の北東部、戸岐(とき)地区にある小さな教会だった。

どこまで車で入っていっていいのだろ…、そんな気持ちになる住宅地の路地を抜けていく。

立派な聖堂を持つ浦頭、堂崎と見てきただけに、眼前に現れた宮原教会はあまりに素朴で…、ある意味、こういう方が心を打った。

それは屋根に十字架が乗っていなければ、周辺民家に埋没して、全く見分けがつかないほどに小さな教会であった。

この地区は隠れキシリタン時代からの信仰集落だそうだ。

当時、隠れキシリタンの組織として密かに組まれた信仰組織が五島全土に117もあったというが、現在まで残るのは、この宮原教会の信徒、一組織だけだそうだ。

尤も、信徒のみならず、島民全体の高齢化や離島が進む今、こういう教会の維持保全は実に大変だろな…と、何となく切なさが募るのだった。

Img_0906cImg_0911cImg_0916cこれで福江島を拠点とした教会めぐりは終わった。

レンタカーを返却し、港まで送ってもらうと、140もの島々から成る五島列島の、丁度真ん中に位置する「奈留(なる)島」へと渡った。〔写真左から:福江港から奈留島へ渡るフェリーからの眺め。/初日訪れた久賀島にかかる太陽。/奈留島上陸後の漁港。〕

Img_0917cImgp3607cこの夜、五島めぐりの旅程中で一番値の張る宿を取っていた。

前夜の寝苦しさとは一転、広々とした和室にベッドという環境で、冷房をガンガンにかけての熟睡の奈留島の夜であった。

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2009年10月20日 (火)

祈りの島めぐり、五島列島の旅 (6)

Imgp3599ptamanoura福江島の半分のみならず、嵯峨島まで精力的に周った一日の終着点は、玉之浦地区の民宿だった。

小さな割に清潔感ある宿だったが、今時ありえない“有料”エアコン…。

100円が必要なテレビならまだ我慢できるが、暑さの残る9月の五島列島で≪ エエェェ(´д`)ェェエエ!! それはないでしょう~!?≫と、驚きの環境だった。

食事(上の写真)が申し分なかっただけに残念で、肥満体で暑がりの私には二度と泊まれない宿となった。

外を走った方が余程涼しいと、旅仲間のSと私は、翌朝も早くから教会めぐりを始めた。

まずは「井持浦(いもちうら)教会」を訪ねた。

昨夕訪れた大瀬崎灯台の近くに在るこの教会には、日本最古の「ルルド」が在ることで知られていた。

Img_0776c“ルルド”とは、先に記したポルトガルのファティマ同様、聖母マリアの出現譚がある南フランスの田舎町で、カトリック教会の巡礼地にもなっている。

 

1858年、薪拾いをしている少女の前に、突如 聖母マリアが現れ、少女に「泉で水を飲んで顔を洗うよう」言ったという。そこで少女は川へ行こうとしたが、聖母マリアが洞窟内を指差すので従うと、なんと洞窟の底から滾々と清水が湧き出したのである。

以後、聖母マリアはこの少女の前に18回も姿を現し、また洞窟の水は“不治の病をも癒す”奇跡を相次いで起こし、「ルルドの泉」信仰は世界中に広まったのである。

そんなルルドを模して、この井持浦教会の傍らには溶岩石で造った擬似洞窟が在り、中にはマリア像が安置されていた。

本場、フランスのルルドから取り寄せた水まで流され、奇跡の水を求めて、汲みにくる信徒が後を絶たないようである。

Img_07659pImg_0784c明治28年創建の、レンガ造り、ロマネスク様式の教会は、残念ながら昭和62年の台風で倒壊している。

今、私たちの眼前に建つ教会は、レンガ風のタイルを外装に用いた鉄筋コンクリート製で、新しさは一目瞭然だった。

堂内はスッキリした切り妻型の天井で、華美な装飾は一切無く、ステンドグラスも正面内陣(祭壇と朗読台のある聖域)と、後方2階席の楽廊(聖歌隊などの席)に使われるのみ。とても綺麗だが、極めてシンプルな教会だった。

 

清々しく、朝一番に訪れるには最適な場所だったが、これまでの教会に比べると、心に迫るものが殆ど無かったのは、信仰の自由の下、安泰な時代に建てられたものだからだろうか…。現在も、多くの祈りを集める場所でありながら、不思議な感覚だった。

玉之浦地区にはもう一つ教会が在ったが、民家の中に在り、住民の集会所的な存在と言う事だったので立ち寄らず、車は一路、島の南沿岸を走って、火山海蝕岩がゴロゴロする「鐙瀬(あぶんぜ)熔岩海岸」へと向かった。

Img_0793c“火山海蝕”という言葉に奇観を期待したが、嵯峨島で見た千畳敷ほどの面白さは無く、私は早々に併設のビジターセンターへ戻ると、火山岩の成り立ちなどの案内板を見て、依然、元気に散策中のSが戻るのを待った。

真夏の様相を呈し始めた陽射しの中、私は疲弊ばかりが先立ったが、車の運転をひとえに引き受けているSは、まだまだ歩き足りない…といった顔で車に戻ってくると、今度は福江のシンボル「鬼岳」へと向かった。

Img_0788cImg_0810c全面青々とした芝に覆われ、名前とは似もつかぬ均整の取れたなだらかな鬼岳は、それでも活火山だ。

標高315mのその成り立ちは、西洋の騎士が持つ楯に似た、なだらかな盛り上がりのアスピーテ(楯状火山)と、臼のようにズンと盛り上がり、火口が落ち窪むホマーテ(臼状火山)の2段重ねになっている。

これは300万年前と5万年前の二度に亘る火山活動がもたらした結果で、時代と共に、マグマの質も変わったということだろうか。いずれにせよ、つくづく五島は“火山列島”だと実感した。〔写真左から:鬼岳遠望。異なる火山様式から成る2段重ねが見てとれる。/鬼岳頂上のカルデラ。いまだ活火山とはとても思えない。〕

Img_0807cImg_0818cここでもSは健脚振りを発揮して、ヒョイヒョイと火口まで上っていった。「眺めがイイよ!」と呼ぶので、私も頑張ってついていったが、ヒーヒー、フーフー、ラマーズ法か!と思うような息遣いだ…。(;´ρ`)ゝ”

ようやく到達した315m…。海を一望する草原のテッペンでは、トビが「ピーヒョロヒョロロ~」と、声を響かせながら旋回していた。

Img_0801p2_2ふと、五島出身のカトリック信徒を父に持つという、歌手の五輪真弓の歌が脳裏をよぎった。

♪鳥になれ~、大らかな翼を広げて……旅人のように、自由になれ~♪ と。(『時の流れに-鳥になれ』)

五島の人々の迫害の歴史を知ってから聞くと、この歌は五島に縁ある歌手が作ったこともあって、一味も二味も違った深い意味あいを持つのだと改めて感じながら、鬼岳頂上の風に舞うトビを眺めた。

この後、島を一周するように福江市内に戻ってきた私たちは、「アコウ巨木」と呼ばれる木を見に行った。

五島に来るまで知らなかったその名に、≪巨木がなんだ?≫と時間しだいでは割愛してもいいと思っていたが、実際、目の当たりにすると、その形状の奇怪さに驚かされた。

Img_0830cImg_0845cImg_0847c中国南部から渡ってきたクワ科の常緑高木で、東南アジア圏でしばしば見る「ガジュマル」に似ていた。

複雑に広がった枝から垂れた大量の気根が気味悪く、それが地面に達すると支柱根となり、次第に幹に抱合されていく。

近隣の民家をも飲み込みかねない勢いで広がった枝葉と根っこは、東西に33m、南北に28mも張っており、アコウ樹たった一本で、鬱蒼とした小さな林が出来上がっていることに、度肝を抜かれたのだった。

五島には、こんな樹木があちこちにあると言うが、とりわけ私たちが訪れた樫ノ浦のこのアコウ樹は、長崎県の天然記念物に指定されていた。

熔岩海岸から、鬼岳、アコウ樹と、立て続けに見た自然の力に圧倒されたが、ぼんやりしている訳にはいかなかった。

何しろ、この日の夕方で福江島に別れを告げると、私たちは奈留島に渡る。しかし、まだこの島の重要な教会を見ていないのだ。

昼食も摂らずに、とにかく先を急いだのだった…。

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2009年10月13日 (火)

祈りの島めぐり、五島列島の旅 (5)

嵯峨島から貝津港へ戻ってくると、この日はまだまだ見学と移動が続いた。福江島の西半分、三井楽から玉之浦地区までを周った。

Img_0539cImg_0543cまずは港に近い「貝津(かいづ)教会」へ…。

この教会は大正時代の建設だが、潮風に晒され、昭和の半ばには改修を施されている。決して“古い教会”ではなかったが、信徒は寛政年間(1790)に長崎本土の西彼杵(にしそのぎ)から移住してきた隠れキリシタンの子孫たち…、その信仰の歴史は筋金入りであった。

“寛政年間の移住者”とは、キリシタン追放を目論む大村藩と、農業従事者を増やしたい五島藩との「百姓移住協定」の下に渡ってきた農民のこと。

公式には“百余人”とうたわれながら、実際には三千人もやってきたという。

その背景には、多くのキリシタンが斬首されるなど、弾圧が際立って厳しかった大村藩で潜みきれなくなった隠れキリシタンたちが、比較的締め付けが緩やかだった五島に、土地と信仰の光明を求めて渡ってきたといわれている。

しかし、元々が火山岩の上に成る五島列島である。

土地は、耕せども、耕せども、岩や石がゴロゴロ…。おまけに、東シナ海の荒海の影響をまともに受ける離れ島とあって、塩害も酷かったと思われる。

追い討ちを掛けるように、明治に入って五島にもキリシタン弾圧の波は押し寄せ、ついには「五島極楽、来てみりゃ地獄…」そんな歌が口ずさまれるようになったというから、彼らの夢や希望は、儚く潰えたようである。

明治6年に禁教が解かれた後も、随分長い事、この貝津の信徒は隠れ続け、いよいよ信仰を告白したのは、なんと大正時代も10年を経た後のことだったという。

明治、大正と移り変わっても尚、潜まずには居られなかった迫害の恐怖心とは如何ばかりのものだったのか…、そんな事を考えながら、貝津教会を臨んだ。

Img_0544pその教会は木造・瓦屋根の和風建築に、借りてきたような尖塔がちょこんと乗っかる素朴な外観だったが、中はステンドグラスの華やかさで満ちていた。

夕刻、西陽射すステンドの美しい時間帯に訪れていたら、この堂内はもっと華やかな彩りを放ったことだろう。そう思いつつも、今、自分に与えられた(訪れた)時間の中で、心を打つ光景を記憶に留めてシャッターを切った。

隠れ続けた歴史の上に建つ五島の教会群は、どうやら外観と、その堂内のギャップが魅力の一つのようであった。

やはり、一見して教会だとわかる事を恐れたのだろうか…。

Img_0569pImg_0576c次に訪ねた教会は「三井楽(みいらく)教会」だった。

此処は貝津とは似ても似つかない、外観からして大いなる特徴のある一度観たら忘れない教会だった。

というのも、正面の壁に、島内各地で採取された貝殻を用いたモザイク聖画が描かれていたからだった。

聖堂内もまた、一風変わった斬新な造りで、一瞬、丹下健三設計の「東京カテドラル」を彷彿とさせたが、あれほど奇抜な圧倒感と打ちっ放しのコンクリートの冷たさは無く、むしろ木造の温もりと信徒が描いたフレスコ画の優しさが、斬新な上にも可愛らしくさえ感じた。

Img_0583pImg_0591c改修が昭和46年なので現教会の歴史は浅いが、三井楽の信徒は貝津よりも古く、1776年の安永時代から始まる。

貝津同様、本土から逃れてきたキリシタンたちによってもたらされたカトリック信仰は、寛政年間の百姓移住で更に浦上の信徒が入り、深く根付いたようである。

しかし、再三記しているように、キリシタン弾圧の波が此処に及び、三井楽の信徒も収牢された。教会裏手には、今もその牢屋跡が残っているようだったが、あいにく、Sも私もそれに気付けず、通りを挟んだ墓地へと足を運んでしまった。

事前にいろいろ調べても、なかなか現場で活かせないのが私の旅の愚かしさである…(*_*; トホホ~

〔写真左2枚組から:三井楽教会のステンドグラス。上はイエスの行った奇跡を、下は五島のキリシタン史がモチーフになっている。/三井楽のルルド〕

Img_0607pImg_0619pImg_0632cところで、特筆しておきたいのが五島の「墓地」だ。

何しろ、墓なのになぜか“華やか”なのだ。

墓石には金字を彫りこみ、供えられた花々は、殆どがいつまでも色褪せない“造花”ときている。一区画の墓の中に、マリア像が立ち、聖書をかたどった御影石があり、納骨部分には羊やライオンの装飾が付いているものも有る。

そうでなくても墓石に十字架が乗っていて異国情緒溢れるというのに、どことなく、“華やか”且つ“賑やか”に感じるのだった。

≪まぁ、それも湿っぽくなくてイイかな…≫そんな印象を抱いたが、一方でそこに眠る人々には過酷な迫害の歴史があったのだと思うと、だからこそ、せめて冥界ぐらいは明るく華やかに…ということなのだろうか。

「墓」とは相容れない言葉で評してしまう五島のキリシタン墓地は、横浜などで見る外人墓地とも違い、また一つ“知らなかった日本”の光景として脳裏に深く刻み込まれた。

Img_0654cImg_0691cImg_0696cさて、三井楽教会から西に10分ぐらい走ると、福江島の北の果て、「柏崎」に出た。

此処は、遣唐使が唐へ向けて旅立つ際、国内最後に寄港した場所といわれており、804年、空海(弘法大師)もまた、遣唐使の一員として此処から旅立っている。

2年後に無事帰国した後、空海はこの地で真言宗の布教に努めている。そんな遺徳を記念して「辞本涯の碑」が建てられていた。

辞本涯とは、“本涯(=本国)を辞する(=去る)”という空海の言葉である。

荒れる東シナ海に繰り出すということは、一命を賭す人生最大の大勝負だったということだろうか…。

〔写真左から:辞本涯の碑と弘法大師像。/火山海食崖の柏崎の岩の間から望む姫島。現在は無人島。/三井楽と姫島の海峡を飛ぶカモメ。弾圧が激化した頃、この海峡を越えて、姫島に逃れたキリシタンは多かったそうだ。〕

 

Img_0638pImg_0701c五島といえば“キリシタン”、そんな印象が固まりかけていただけに、遣唐使船、最後の寄港地に寄せる万葉人の想いをも句碑にて目の当たりにすると、宗教の如何を問わず、荒海の孤島である五島には、どこかで心の拠り所たる信仰が必要だったのだと、得心せずには居られなかった。

そして、私たちの「祈りの島めぐり」という旅のテーマも、訪問箇所を重ねるごとに、輪郭線が益々濃くなっていくのを感じるのだった。

〔写真左から:柏崎から望む姫島(上)と、三井楽教会の墓地に立つ姫島島民の為の信仰の礎。キリシタン弾圧禍に苦しんだ歴史を、今は離散した姫島島民の為に語り伝える記念碑。/こんな空を見て遣唐使は旅立ち、迫害を逃れたキリシタンたちは海を渡ったのだろうか…。〕

Img_0705pImg_0718cImg_0714pImg_0724cImg_0735cImg_0745cこのあと、海岸沿いに車を走らせて「渕ノ元カトリック墓碑群」(写真左から4枚)を散策、さらに海沿いを南下し、五島一美しい浜辺の「高浜ビーチ(写真6枚目)」を「魚籃(ぎょらん)観音(写真5枚目)」の建つ高台から遠望し、一路、玉之浦へと急いだ。

日没前に西の果て、「大瀬崎」で夕陽を鑑賞したかったのである。

Img_0752cImg_0756c夕陽鑑賞には充分間に合うタイミングで大瀬崎に到着したが、空は俄かに曇天気味に…。

遮るものが何もない西の海に落ちてゆく太陽は、幾分高い時分に一瞬、海を金色に染めたが、以後、雲の中で輝くばかりで、いつの間にか辺りは暗くなっていった…。

〔写真:大瀬崎灯台。断崖絶壁に立つ白亜の灯台は、その灯り200万カンデラという強烈な光度で、夜の東シナ海を照らす。※1カンデラ=径2cmのロウソク1本分の明るさ〕

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2009年10月 7日 (水)

祈りの島めぐり、五島列島の旅 (4)

東シナ海に吹く風は、その爽やかなブルーとは裏腹に、意外と潮がきつい。船外で景観など眺めていると、髪も肌もベタベタになる。こんな海風に当たりながらカメラを出すと、後の手入れが厄介なので到着までの20分、船室で静かにしていた。旅仲間のSは、とにかく行動派。ジッとせず甲板に上っていくと、終始、海風に吹かれていた。

夏の観光シーズンも終わって、この船を利用するのは専ら地元の人々なのだろう。私以外は全員顔見知りとみえて、老若男女、よく喋っていた。

とりわけ若者が多く、先の楠原教会では幼稚園が廃園になるなど、五島の少子高齢化は深刻だと思っていただけに、≪五島にも若い人が居るじゃない…≫と意外に思った。

帰宅後調べてみれば、この嵯峨島は漁業で生計を立てている家庭が大半で、後を継いで島に残る若者が結構多い…とのこと。 なるほど合点がいった。

Img_0520cImg_0532cところで、今回の旅の中で、嵯峨島は一つの“難所”だった。

と言うのも、観光客が滅多に来ないとみえて、レンタカーも無ければレンタサイクルも無い。タクシーも無い。訊いたところでは「小学校に一台、軽トラが在るけど…」とか。

つまり、訪れた人はとにかく歩くしかない、そういう島だったのである。

島自体は3平方キロメートル、外周約123kmの小さなものだが、北の男岳、南の女岳の二つの火山が噴火で接合して出来た島。その為、起伏が多く、どこへ行くにも坂道を上る。折角上ったのに、その先は下る…。こんな事の繰り返しで、健脚のSに比べ、日々“引き篭り(笑)”の私には、嵯峨島は難所以外の何物でもなかった。〔写真左から:嵯峨島の漁港を見守る神社。鳥居の先、御社の屋根に狐の面だろうか?こんなの初めて見た。/猫の多い島だった。〕

下船後、港からも見えた「嵯峨島教会」を目指した。

山の中腹に見えていたので、端っから苦しい上りを覚悟していたが、途中、路地で気さくな島民たちに声を掛けられ、二、三お喋りしたので、なんとなく気が紛れた。

Img_0375p嵯峨島教会は一見、“集会所”と勘違いするような平屋の建物で、屋根に十字架が無ければ教会とは気付かない。

人口230前後の三分の一がクリスチャンだという嵯峨島で、唯一の教会なのだが、別段立派な尖塔があるわけでもなければ、ロマネスクのこうもり天井があるわけでもなかった。

これまでに見た教会の中では「牢屋の窄教会」に次いで小ぢんまりとしたものだったが、民家でひっそりミサを捧げてきた隠れキリシタンの末裔という現在の信徒たちにとっては、そんな装飾的なものより、高々と十字架を掲げられることこそが心の安住なのだろう…。私は勝手にそんな思いを抱きながら、同情的な心境で堂内に入り、瞬時に外観に惑わされた自らを恥ずかしく思った。

そこは紛れもなく、れっきとした立派な教会だったのである。

Img_0383c内部は外観同様、白壁と建材の茶で色調が整えられ、凛と引き締まった佇まいを見せていた。窓も極一般的なガラスで彩りなどは無いのだが、却って、木の温もりと入り口に施された聖水盤の可愛らしさが印象深く、いつまでも心に残る教会だった。

「幾つ見ても、二つと同じような教会が無いね」と言うSの言葉に「おっしゃる通り!」と共感しつつ、もと来た道を戻った。

この旅を始めてまだ6つしか教会を見ていないが、それでも、雰囲気がかぶる事無く、一つ一つが個性ある教会だった事に、共に驚いていたのだった。

落花生のような形の嵯峨島は、一周約4kmの遊歩道でグルッと回れる。

案内板と凡その方向性と、そしてSの行動力だけを頼りに、「千畳敷」という火山海蝕が創る崖や洞窟、奇岩奇観が連なる西海岸へと向かった。

アップダウンはあるものの、遊歩道を歩けば自ずと千畳敷に出た。

そこは嵯峨島を形成する男岳、女岳の噴火によって堆積した火山砕屑(さいせつ)物と溶岩で接合した不毛の岩場で、それを削る激しい東シナ海の荒波が、得も言われぬ不思議な景観を創り出していた。

Img_0487pImg_0393p名付けて“ミルフィーユ岩”。何万年も昔の激しい地球の営みを感じさせる凝灰岩の層を、大量のフナ虫が地すべりのように走る…。時々、「ギャッ!」と悲鳴を上げながらも、見た事の無い奇観に興奮した。

ミルフィーユ岩の角が荒波に削られると、今度は見ているだけで激しいめまいを起こしそうなマーブル模様が現れる。名付けて“グルングルン岩”。

些か稚拙なネーミングだが、事実、Sはその岩に足を取られたか?目視の距離感が狂ったのか? とにかく、派手にすっ転がっていた。

笑うばかりで助けに駆け寄れないあたり、私も実にフットワークが悪い。何とも申し訳ない事をした…と、今頃になって思っている。

Img_0435cImg_0501cそれにしても、教会巡りがどうのこうの言っても、さすがに自然の織り成す不思議には叶わず、この旅始まって以来のはしゃぎぶりに二人とも時間の経つのを忘れた。

嵯峨島では約3時間の観光を予定しており、12:50発の渡し舟で福江に戻らないと、あとは夕刻の便まで船が無い。

教会と千畳敷しか観ていないにも拘らず、もはや女岳へ向かう時間は微妙な感じになっていた。

実は南の女岳は、東シナ海の荒波の浸食で、既に山の半分が河口付近までザックリえぐられ、垂直の海蝕崖が見られる地質学的にも非常に珍しい景観が望めるようであった。要は、火山の断面図が見られるというわけである。

当初は、≪そこまでは行ってみたい…≫と思っていたのだが、アップダウンのきつい徒歩での島探索に、私は言うまでもないが、思いの外Sもくたびれており、互いに無言のまま、トボトボと港へと向かった。

途中、保育園の園庭で休もうとブランコに歩み寄ると、野焼きをしていた保母さんに声を掛けられ、教会めぐりの旅でここまでやって来た事を話した。

五島の人々はよくこう言った。「よくまぁ、こんな小さな島を見つけましたね。」と。

Gotoumap私たちに言わせれば「釣り人には人気の島のようだし、普通に地図に載っているし…」という感覚だったが、嵯峨島は、五島に住む人々でも生涯行く事が無いほどの孤島で、この後も度々、地元の人に巡ってきたルートを話すと、嵯峨島だけは驚かれたのである。

〔地図:福江島とその周辺の島々。右上端が前日訪れた久賀島。左上端が嵯峨島。五島の人が嵯峨島を訪れないのは、かつては罪人が流され、女岳の断崖から落として処刑した島だからだそうだ。時に暴れた囚人が死刑執行人を巻き添えにして落下したこともあり、以後、簀巻きにして落とすようになったといわれる。〕

訪れてみれば、とても気さくな島民気質で、しばらく話をしてから園に戻って行った保母さんは、ブランコの辺りで休憩する私たちのところに再び戻ってくると、「子供のおやつなんですけど…」と申し訳なさそうに、“チューチューアイス”を2本差し出して、「暑かったでしょうから…」と下さった。

なんと優しい出来事だろうか…。

ちびっ子のおやつを、いい年をした大人が横取りしてしまって恐縮至極であったが、その優しいもてなしに、心から喜んでアイスを貰った。

Img_0508c嵯峨島では女岳、男岳は巡れなかったが、だからこそ出会えたこんな嬉しい島民との触れ合いもあり、また時間を忘れて楽しめた景観もあって、本当に満ち足りた3時間を過ごすコトが出来た。

願わくは、貸し自転車ぐらいあれば最高だったのだが…。そんな事を思いながら、今度は甲板のベンチに座って福江への帰途に就いた。

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2009年10月 5日 (月)

祈りの島めぐり、五島列島の旅 (3)

五島初日の見学に、ガイドを付けたのは大正解だった。…というのも、二日目以降は、旅仲間のSと二人きりで教会群を見て周る。互いに初めて訪れる五島で、明治初期のキリシタン弾圧禍に飲み込まれたこの島の歴史を、僅かでも知ってから教会巡りが出来たのは意義深かったのである。

翌日、私たちは再び福江島を離れ、西隣の「嵯峨島(さがのしま)」へ向う。

福江~嵯峨島間の航路は、福江島の西側、三井楽地区の貝津港から渡し舟に乗るが、島の東に宿泊していた私たちは、レンタカーで早朝出発すると、島の北部の教会を二、三巡ってから港へ向かう事にしたのだった。

Img_0286cImg_0309c最初に立ち寄ったのは「楠原(くすはら)教会」。

祭壇衝立が、そのまま教会の正面壁になったようなレンガ造りの外観が姿を現すと、「おぉ、これはまた…」と嘆息が漏れる。

なにしろ前日見た久賀島の教会とは、雰囲気が全く異なっていたのである。

〔写真左から:楠原教会正面/教会裏手の幼稚園跡地。少子高齢化の波はこういう過疎の島では顕著なのか、昨年で幼稚園は廃園。聖母子像だけが建っていた〕

Img_0296c表には「ファティマのマリア像」が置かれ、ソテツの木が植わっていた。

「ファティマ」とはポルトガルの小さな村の名であるが、3人の牧童の前に度々聖母マリアが姿を現し、幾つかの予言と奇跡を起こしたという、聖母マリアの“出現譚”の一つが語られる聖地である。

私も6年前に訪れたが、大地に額づきながらドイツから巡礼に来た青年の姿に衝撃を覚えたのを今でも忘れない。

そんな聖地ファティマが、まさか極東のこんな小さな島で讃えられているとは…、ちょっと感慨深いものがあった。

Img_0301cところで、五島に限らず教会の前では、時折、妙に葉っぱの乏しい可哀想なソテツを見かけるコトがある。

この楠原教会でも妙な状態になったソテツが植わっていたが、これ、日本のカトリック教会では必ず植えることになっているらしい。

尤も、イエスにまつわる伝説では、本来その木は“ナツメヤシ”でなければならないのだが、ナツメヤシの生息域を越えてキリスト教が波及したので、それに代わる樹木として、椰子や棕櫚、ソテツなどが用いられているようである。

何でも「枝の主日」という儀式にその伝説は残っていて、復活祭の1週間前…、つまりキリストの“エルサレム入城”の際、群集が手にナツメヤシの枝を持ってイエスを熱狂的に迎え入れたことに由来している。

なるほど、葉っぱ大事だったわけだ。

クリスチャンにとっては当たり前の話だろうが、特定の信仰に肩入れしない私にとって、こういう話は旅に出て初めて知る事の一つ。実に興味深かった。

さて、五島の教会めぐりの中で、どうしても知っておかねばならない人物に「鉄川与助」という大工の棟梁が居る。

私たちがこれから次々と見て周る教会の至る所で、建築に携わった人物として彼の名を目にする事になるのだが、日本の教会建築の黎明期に、フランス人宣教師に習って教会建築をマスターしたこの人物は、後世、幾度か受勲するまでの教会建築家となったという。しかし、そんな与助自身は、生涯“仏教徒”だった…と言うから、実に良く出来た話だと、帰宅してから調べた資料に思わず失笑した。

そしてこの、楠原教会もまた彼の建築によるものだった。

Img_0292p内部は交差する梁でアーチを造るリブ・ヴォールト天井…、いわゆる「コウモリ天井」だが、一つのアーチ内が4分割…と、梁の本数が少ないため、漆喰の白さが目立ち、また建材を淡い茶色にしているため、とても清潔感あるモダンな印象を与えた。

〔写真:教会内部全体と祭壇〕

教会の傍には、明治初期のキリシタン迫害の牢屋が再建されていた。

Img_0323cImg_0321cImg_0315c申し訳ない表現だが、一見、公衆便所のように見えるその牢屋跡は、うっかり見落としてしまいそうな場所だったが、中には十字架と、首に荒縄を掛けられ連行される当時の人々の写真などが飾ってあって、更にはその子孫らによる慰霊碑も建てられていた。

先に久賀島で弾圧の話を聞いていただけに、五島のキリシタン史を垣間見る上でも、此処に立ち寄れたのは何よりだった。

Img_0326p船の時間もあるので≪どんどん見て行こう≫と思っていた私たちだったが、一つ一つの教会に歴史があり、趣も異なり、見所が多く、思いの外、楠原に時間をかけてしまった。しかし、次の教会への道すがらなので、「城岳展望台」にも立ち寄り、それから「水之浦(みずのうら)教会」へと向かった。

〔写真:城岳展望台からの眺め。元々は岐宿(きしく)城跡で、この地域を治める領主の山城が在った場所。複雑に入り組む島々、リアス式の海岸線が望めた〕

 

 

Img_0338p_2Img_0345p_2Img_0343c_2白石湾に臨む白亜の教会、それが水之浦だった。

別名“貴婦人”とも呼ばれるその教会は、現存する木造建築の教会としては、国内最大級だそうだ。

明治13年の創建はフランス人宣教師によるものだったが、老朽化の為に昭和に入って再建された折には、鉄川与助氏が手掛けたそうである。

そのせいか、教会内部の雰囲気は、先の楠原教会に何処と無く似ている気がした。〔写真左から:水之浦教会全貌と裏の土手から。正面とは打って変わって、瓦屋根が和風建築の趣を醸す/教会内の風景。ステンドの光が趣深い/教会裏に設置された「ルルド」。これもフランスのマリア出現譚のひとつ。ルルドの洞窟の湧水が万病を治すという奇跡があり、今も多くの信徒に信じられている。〕

Img_0340cImg_0370cImg_0369cこの教会の裏手は、よく手入れされた遊歩道のようになっていると思ったら、その道は、キリストが磔刑に処せられたゴルゴタの丘までの道“ヴィア・ドロローサ”を模しており、14のステーションが点々と据えられた十字架で表現されていた。

そして、その終着点が明治初期に迫害されたキリシタンたちの牢屋跡となっており、先の楠原から移送された信徒たちは、此処で監禁、拷問されたという事だった。

二つの教会は、こんなところで繋がっていたのである。〔写真中と右:迫害に使われた牢屋の跡地。殉教した五島出身の聖人、ヨハネ五島(享年19歳)の像が見守る〕

穏やかな湾を見下ろす景観の中で、白亜のロマネスク・ゴシック・日本建築折衷様式の教会は大変美しかったが、単純に「綺麗だ~」では終われない鎮魂の祈りを捧げるものでもあった。

Img_0372cImg_0373cこうして、福江島北部の教会見学を終えると、一路、貝津港を目指した。

そこは、観光とはかけ離れた漁師港で、なんとなく場違いな感の私たちは、地元の人々に混じって渡し船に乗り込むのだった…。

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2009年9月26日 (土)

祈りの島めぐり、五島列島の旅 (2)

五島列島は、中心の「奈留(なる)島」から以西を下五島と呼び、それ以東を上五島と呼ぶ。

まず下五島の拠点「福江島」に降り立つと、私たちは更に船を乗り継いで、東隣の「久賀(ひさか)島」へと渡った。

島同士をつなぐ汽船会社が行う半日観光に申し込んでいたのである。

20分の航行で着いた久賀島の港は、福江港とは打って変わって、桟橋だけの過疎感漂う、寂れた港だった。

実は、長崎へ向かう羽田からの飛行機に、先の衆院選で破れた久間元防衛大臣と乗り合わせた。

大臣までやっても、選挙で負ければただの人…。秘書も無く、単身エコノミーでのお国入りは、誰の目にも“哀れ”としか映らなかった。

Img_0092cそんな前哨があっての五島入りで驚かされたのは、本土から100km以上も離れた東シナ海に浮かぶ島(福江)の、あまりに立派な港施設だった。

決して僻地なら粗末でいい…という訳ではないが、日にどれだけの人が利用するのか? つくづく“箱物行政”が遍く行き渡った国だと感じずには居られなかったのである。

尤も、此処が久間氏の地盤かどうかは知らないが、概して…という話。

それに比べると、久賀島の港は旅情に満ちていて好ましかったのである。

Img_0122p Img_0117c_2 さて、話を旅に戻そう。

五島列島は、別名“教会列島”とも言われるキリシタンの里である。

久賀にも当然その歴史が刻まれており、既に船からも見えていた「浜脇教会」を訪ねることから観光はスタートした。

〔写真左から:(2枚組)船から見た堂崎教会と岩場のマリア像。教会列島の呼び声どおり、島を渡る船からも、あちこちにこういったものが見える。/久賀島遠望。田ノ浦瀬戸に面して浜脇教会が見える。〕

Img_0138p快晴の青空に映える黄色の十字架、≪これが日本の景色だろうか…≫と唖然としたまま中に入ると、もはや言葉は無かった。

正に、“知らなかった日本”を知った驚き…とでも言おうか、予期せぬ光景に、一発でこの五島の旅が実り多きものになる事を予感したのだった。

日本で“信仰の自由”の下、キリスト教が解禁されたのは1873年(明治6)のこと。以後、隠れキリシタンたちは続々、信仰告白をして復権したが、そんな時流の明治14年に建てられたのがこの浜脇教会であった。

下五島一古い歴史を持つこの教会は、潮風による老朽化から一度、昭和に入って再建されて今の姿になったと言う。

Img_0156cそれは五島初の鉄筋コンクリート製の堅固な教会で、信徒にとっては磐石な「信仰の自由」の証として、嬉しい落成だった事だろう。

信徒の大半は漁民だが、殺生を嫌ってか、ミサ前日の土曜日には誰も漁には出ないとの話だった。

次いで向かったのは、キリシタンの悲しい歴史に満ちた「牢屋の窄(さこ)教会」だった。

秀吉の時代、1587年に発布された「伴天連(バテレン)追放令」以降、日本では300余年に亘り、キリスト教は激しい弾圧に遭った。

鎖国に踏み切った徳川時代は勿論だが、文明開化や鹿鳴館外交など“西洋かぶれ”に見えた明治時代に尚、キリスト教が迫害、弾圧されたとは、正直、意外に思った。

尤も、私の不勉強が故の意外性で、改めて歴史の教科書を繙けば、倒幕、尊皇攘夷の機運高まったこの時代に、仏教すら廃仏毀釈の被害にあったのである。「五傍の掲示」で神道こそ国教と掲げ、それ以外を邪宗門と切り捨てた明治初期、キリシタンの迫害は一層激しさを増したのである。

Img_0159cImg_0176c牢屋の窄教会は、この時の弾圧で殉教した人々を顕彰したもので、教会的要素より記念館に近いものであった。

此処の出来事は五島の人々にとっては蔑ろに出来ない話のようで、ガイドの男性はA4のプリントを取り出すと、炎天下、延々それを読みあげたのだった。

私も旅仲間のSも、≪お願いだから教会の中で…≫と思ったが、話題が話題ゆえ、記念碑の前でジッと話を聞いたが、照りつける太陽に次第に朦朧となるのだった。 そのせいか?! 篤く説明してもらった直後に発した私たちの相次ぐトンチンカンな質問…。

ガイドには何とも“馬鹿な二人”と映ったことだろう。いやはや、面目ない話だった。

Img_0171pところで、此処で最も衝撃的だったのは、教会内部に敷かれた絨毯の、色が白くなっている部分が物語る悲劇だった。

この僅か6坪ほどの空間は、信者が押し込まれた牢屋の広さを意味していた。そこに8ヶ月もの間、なんと200人が詰め込まれたと言うのだ。 畳1畳に、15人以上の計算になる。

更に信者たちは改宗を迫られ、連日、三角の木の上に大石を抱いて正座する「算木攻め」などの拷問が繰り返されたそうだ。

横たわる事は愚か、座る事も出来ない空間で、最初に死んだ老人は5日間も放置されたそうだ。すし詰めの信者らに止む無く踏まれ、殆どペッタンコの状態で葬られたという。

8ヶ月間、200人の老若男女が垂れ流し状態…。死者も混在した環境は酷く不衛生で、湧いたウジに腹を食い破られて死んだ少女の話や、四斗 (7.2リットル) 2杯の水を腹に詰め込まれた男性の話など、人は何処まで他者に残酷になれるのか、聞いていて気分が悪くなるのだった。

Img_0177c結局、弾圧が止むまでに39名が牢内で、出牢後にも3名が死亡したそうで、殉教42名の碑が、鎮魂の祈りと共に静かに並んでいたのだった。

長崎や津和野での弾圧は知っていたが、五島にそんな歴史があったとは露知らず、深く心に残った。

久賀島を西から東に貫く道に沿って、次は新・旧の「五輪(ごりん)教会」へと向かった。

「新」は現在進行形の新しい教会だが、「旧」は国の重文であり、世界遺産申請の暫定リストにも載っている、五島のキリシタン史そのものであった。

Img_0191p数ある教会群の中で、唯一、車では行かれない教会と言われる五輪教会は、小さな入り江の船溜りに建っていた。

驚くような雑木林の中を15分ほど歩く。ようやく開けた視界に、臙脂色とグレーの木造平屋建ての新・旧五輪教会が飛び込んでくるが、一見して「あれが教会だ!」と分からない造りなのは、隠れキリシタン時代の名残なのだろうか…。

ところで、グレーの旧五輪教会は、元々は浜脇教会の聖堂だったそうだ。老朽化で取り壊す際に、五輪地区の人々が移築を熱望したようである。

何しろ、この五輪地区の信徒にはそれまで教会が無く、ミサの度に島の東側から西側まで歩いて通ったのだそうだ。小さな島と言っても、野山を越えて78kmは大変だったろう。

Img_0222pImg_0209p古い小学校のようにも見えるその教会は、中に入ってビックリの佇まいを見せる。

建築技法の向上で、時代と共に梁の本数は減っていくが、此処はまだ天井のアーチ部に梁が多く、8分割にされたコウモリ天井のゴシック様式であった。

天井の内側は木目がむき出しで、漆喰で白く塗りつぶしていないのも特徴的なのだそうだ。

Img_0216pImg_0193cImg_0228c窓も面白かった。

≪ステンドじゃないんだ…≫と眺めていると、ガイドがおもむろに開け閉めして見せる。「あっ!」と意表を衝かれたが、その窓は“引き戸”になっているのだった。

てっきり“押し開け、引き開け”の観音開きだと思っていたので、妙なところで「へぇ~」と感心させられた。

〔写真左から:引き戸の窓と窓からの木漏れ日/教会の窓の外の景色/海は素晴らしく澄んでいた。〕

通常、半日観光はこれで終わりだったが、一便早い船で渡ってきた私たちには時間がたっぷりあった。

ガイドのご好意で、この後、折紙展望台と椿原生林に連れて行ってもらってから、夕刻の便で福江島へと戻ったのだった。

 

Img_0250c_2Img_0253c_2Img_0255c_2Img_0257c_2Img_0184c2〔写真左から:折紙展望台からの眺め。島民たちが造営した手作りの展望台だそうだ。/絶品の五島牛/椿原生林への道。蜘蛛の巣と蜂が多くて進めなかった。/原生林のヤブツバキの葉がキラキラと斜面で光る。/蕨地区の集落。奥に見える蕨小島に暮らす人々は、全員苗字が「小島さん」だとか…(笑)〕

とても日本を旅しているとは思えない未知との遭遇に、いつまでも興奮冷めやらぬ五島の夜となった…。

   

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2009年9月23日 (水)

祈りの島めぐり、五島列島の旅 (1)

Yonatan(ヨナタン)、これ、私の旅仲間の間でのニックネームである。

悠久の歴史を有する中東へのオマージュから始まった「遥かなる中東」という撮影テーマが、次第に、中東諸国では切っても切り離せない人々の精神活動、“祈り”や“信仰”といったものに移行し、そんな題材を追いかけ始めて間もなく訪れたイスラエルで、現地ツアースタッフに付けてもらったニックネームである。

ユダヤ人にとって大切な始祖とも言うべき人物、「ダビデ」を助けた青年こそがヨナタンで、旧約聖書にも登場している。

イスラエルでこの名前を付けてもらったことは、撮影テーマからもなんとなく嬉しいモノで、署名の際などは好んで「y..ishizeki」と、“Y”を二つ重ねている。

尤も…、私自身はといえば、特定の信仰はまるで持ち合わせていない。

それは、世界中のどんな宗教文化でも感心して見て歩け、自由に考え、そして敬意が払えるように、己の信心だけは解き放っておきたい…という思いがあるからだ。

そうは言っても、好き嫌いに近い“しっくりくる”という感情はあって、誰もが自身の内面に本来持ち合わせるという“仏性”、それを目覚めさせる悟りを求めた仏教が、いきなり登場する他者(=神)との契約などと違って、精神的には一番理解しやすいと思っている。

が、それでも、特定の信仰に与せず…という大義を抱きながら、世界の「祈り、聖地、信仰」を見聞している。

そんな或る時、旅仲間の一人から「祈りがテーマなら、ヨナタンには五島列島が打って付けだと思うけど、一緒に行かないか?」とお誘いを受けた。

はじめ、「なぜに五島か…」?(_)?(_)? と思ったが、聞けば、“キリシタンの島”だそうで、日本におけるキリスト教文化の聖地であることが分かった。

それも、本土と離れた列島であったことから、長崎とはまた一味違ったキリシタン文化があるようで…。

(0;…まさに灯台下暗し!

何も中近東を巡り歩かずとも、日本にもテーマに即した祈りの地が在ったのかと、旅仲間の助言に、9日間の予定で共に五島列島をめぐることにしたのだった。

Img_0064c五島へは長崎の大波止港よりフェリーで行く。〔写真:大波止港のシンボル。巨大なアンカー〕

朝一番の船で五島入り出来るよう、長崎で一泊してから渡った。

五島…というから、五つの島から成るかと思いきや、かの列島には大小140もの島々が点在している。内、人が暮らしているのは20島にも満たない。

列島の中核を成す島は78島あり、決して“五つの島”という訳では無いようで、その名前は益々おかしくなるのだが、何でも、古く中国の文化で「五」という数字が吉数だったからだ…といわれている。

Gotoumap001b本土から離れた東シナ海に浮かぶ島々は、古の時代から決して僻地扱いなどではなく、『古事記』にも国産みの件(くだり)にその存在が「チカノシマ」として記されている。

また、中国、朝鮮半島はもとより、東南アジアからの漂流者は、潮目から必ずこの列島に流れ着き、また一方で、大陸へ旅立つ遣唐使は、ここを国内最後の寄港地としていたようで、五島は異文化接触の最先端地だったと思われる。

古事記編纂時には既に島の存在をきちんと把握し、名前を記したのは、そんな五島列島を中央政権が大事がっていたことの証かもしれない。

現在も五島列島の一つには「小値賀(おじか)島」と呼ばれる島があり、古の島名は今日まで脈々と受け継がれているようであった。

“雨女”の私の旅にしては空前絶後の快晴に恵まれ、船は穏やかに大波止を出航、列島一大きな福江島を目指して3時間半の船旅が始まったのだった…。

Img_0072cImg_0078c〔写真左から:大波止港を出て30分ほど、遥か遠くに軍艦島が見えてきた。/五島列島を形成する小島がたくさん見えてきたころ、海面すれすれをトビウオが飛んでいった。この辺では“アゴ”と呼ぶそうだ。海の青さが違う…。〕

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2009年9月22日 (火)

栗皮染め

Imgp3693b定年退職後、自身の健康維持のために、農家で農作業を手伝っている従兄弟から栗がたくさん届いた。

毎年この時季になると送ってくれるのだが、今年の栗はとりわけ立派で、早速に茹で、一部は甘露煮、一部は茶巾絞りのお菓子を作るなど、加工して美味しく頂いている。

ところで、こういう食材を加工しながらいつも思うのは、大量に出る皮だ。茹で上がった栗は、鍋の中で実に美しい色に輝いているが、この皮の色を何かに利用できないものだろうか…と。

そこで、染物をしてみる事にした。

思い入れがあって大事に着ていたが、襟首だけ黄ばんでしまったTシャツで試してみる事にした。

一枚は、母を初めて海外に連れて行ったとき、スペインはバルセロナの、ガウディの教会「サグラダ・ファミリア」で買ったもの。

もう一枚はイングリッド・バーグマンファンの私が“聖地”と呼ぶ、モロッコはカサブランカで購入した、映画『カサブランカ』デザインのTシャツ。

生成りと真っ白の2枚を用意し、牛乳を水で薄めた液体にひとまず浸けておいた。

何でも、天然染料は染みづらく、たんぱく質を染み込ませておくと染色しやすい…と、ネット情報にあったからだ。

とりわけ、襟首だけ黄ばんでいる…ということは、そこはたんぱく質汚れである。

汚れを消したい為の染色で、そこだけ濃くしても仕方が無いと言うわけ。

栗の皮はよく洗った後、鍋でグツグツ煮詰めて色を出した。

本当は煮ながら染め付けるのがよいのだろうが、そんな大鍋が無い。熱い液体をバケツに溜めて、Tシャツを浸した。

色むらが出来ないよう、棒でグルグルかき混ぜながら染める。

だが、なかなか思うように色が入っていかない…。何か手はないものだろうか?

再び、ネット検索を掛けると、「媒染」という工程に辿り着いた。要は、化学変化させて色を濃くさせる方法らしい…。

その剤にはナスの漬物などで使う明礬(みょうばん)や、石灰、木酢などが挙げられていた。

≪あぁ、石灰なら煎餅の袋に在るぞ!≫と、除湿剤を取り出すと別のバケツに溶かした。

私には染色家の友人が居るが、彼女が聞いたら卒倒するんじゃないか…と思うほど、濃度も何もかも超テキトーである。

ま、こんな衝動的な染物なので、仕上がりも芸術…とはいかないが、それでも媒染とやらは上手くいき、栗皮染めのTシャツが2枚出来上がった。

サグラダ・ファミリアのTシャツは、他の油汚れがかえって目立ってしまい上手くいったとは言えないが、カサブランカTシャツの方は、まぁまぁ、気に入っている。

台所にあったものでの思いつきの染色であったが、想定外の面白さに、ちょっとハマッてしまいそうである。

Imgp3681bImgp3682bImgp3690b

Imgp3680p 〔栗皮染め:写真で見るより、イイ感じに染め上がっています(笑)〕

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2009年9月21日 (月)

想い出ぽろぽろ

気が付けば既に9月も半ばを過ぎ、この『独り言』も長々夏休みを貰ってしまった。

カレンダーの残がこれだけ薄くなると、毎年決まって精神的な焦燥感が襲い、9月はちょっと苦手な時季だ…。

そんな今月はじめ、28年ぶりに小学校のクラス会があった。

私自身が世話役だったのだから、“あった”というより、“やった”という方が正しいのだが、8月は専らその準備に多くの時間と精力が奪われた。

しつこいようだが、卒業以来、約30年である。クラス会開催の告知そのものが、経年の壁に阻まれ、企画当初、連絡の付く人は半数にも満たなかった…。

多摩丘陵を切り開いたニュータウンが、続々建設ラッシュだった頃の、いわゆる「団地の子」だった私は、小学校卒業後、半年で現住所へと転居した。

以後、同級生とは殆ど付き合いが無いままに四半世紀以上の歳月が流れ、多くの級友たちも又、既に家庭を持ち、団地を巣立ち、新たな拠点で公私共に活躍中…という世代である。消息を知るだけでも、とにかく骨が折れた。

一緒に幹事を手伝ってくれた男子も居たが、彼は転職したばかりとあって、暇な私に(?!) 丸投げの感は否めず…、止むを得ず、兄弟(姉妹)同士が同級生だった人には姉まで動員して人探しを手伝ってもらった。

戸建てや商店だった級友には、実家がまだ在るだろうと電話をし、その他、メールや往復ハガキ…、様々なツールを駆使し、ようやく28名と連絡を取ったのは、8月も下旬のコトだった。

41人学級だったことを思うと、甚だ力不足を感じるが、早々と、担任からだけは参加の返事を頂きながら、教え子が集わないのでは申し訳ない。ようやく8月末までに二桁の参加者が決まり、不参加ながらも近況だけでも一報を寄せてくれた数人が在ったのは何より嬉しかった。

それにしても嫌な時代になったものである。

こうして苦心して知り得た消息を“名簿”にまとめるも、一緒に幹事を手伝ってくれた男子からは、個人情報保護の観点から、安易に配布するのはどうか…と言われた。

また、実家へ入れた連絡も、“小学校の同級生”という私を不審がる応対は多かった。

何も、電話に出た親御さんに“振り込め”と言っているわけじゃ無し、ただ、「○○君と連絡が取りたい」だけなのに…、結局、親に連絡付きながらも、中継ぎをして頂くしか術が無く、折り返しの連絡をジッと待つばかりの出欠確認は、遅々として捗らなかった。

なんとも、時代の悪さを呪ったものだ…。

Img_0050bそんなわけで、≪こんなお役、二度とご免だ!≫と思っていたクラス会当日。

少し早めに家を出て、四半世紀ぶりに訪ねた学び舎…。ここで出会った面々との再会を前に、11歳の自分と一緒に校庭内を歩いてみた。

かつて、36クラス、全校生徒1500人ほどのマンモス校だった面影は皆無で、使われていない教室が外からもはっきりと分かった。(後で分かった話だが、現在は15クラスしか無いそうである。)

Img_0042bImg_0007bImg_0034bImg_0055bクラスメイトと草野球をやった公園(写真左端)を抜け、母と買い物袋を半分ずつ持って歩いたスーパーからの坂道(写真左から2番目)を一人で上り、当時、生垣に過ぎなかった木々が大木になっている事にびっくりした。

昔住んでいた団地のドアの前まで行き、そこから見下ろした景色(写真3枚目)をカメラに収めると、子供時代、恰好の探検場所だった「お化けマンション」を目指した。建設途中で火災に遭い、そのまま放棄された病院建設予定地だと聞いていたが、訪れてみると、緑地公園(写真右端)になっていて、あんぐりしてしまった。

「化けマン、もう無いのか…。」 思わず声にして呟いたが、あんな危ない場所、残っている筈も無かった。

Img_0012pImg_0020p_2〔写真2枚組:左から:昔住んでいた団地と40年間変わらない赤いポスト/公園のワニも40年前のまま…。逆上がりを練習した鉄棒も変わらなかった。〕

そのまま坂を下って、子供の頃、喘息で23日おきに通った町医者まで行き、≪随分、立派な病院になったじゃない…≫と思った。

通り一本挟んだ隣の森は、昨今、話題の場所となっている白洲邸で、「武相荘」の裏口を横目に、此処で竹箒を持った白洲正子に怒鳴られた事を思い出していた。

当時、“クレイジー婆さん”と呼んでいたが、今や日本を代表する粋人なのだから、驚くじゃないか…。

こうして、12歳まで過ごした町をカメラ片手に歩きまわり、先生への花束を駅前でしつらえて、クラス会へと向かった。

次々と姿を見せた級友の四十面は、10秒と経たない内に1112の頃の面影しか見えなくなる。

酒が入ればざっくばらんな無礼講。幼い頃を知られている間柄に気取りは無く、終わってみれば、久々に心の底から笑える楽しい一夜となっていた。

参加者の誰もが、「よくぞクラス会を開催してくれた」と喜んでくれ、二次会まで全員参加。

あれだけ、≪二度とご免だ!≫と思っていた幹事も、宮崎駿のアニメよろしく、子供の自分を連れて歩き回った懐かしい世界に心癒されたのだろうか、≪私でよければ、いつでもお膳立てするよ≫、そんな風に思っていたのだから不思議である。

Img_0063bきっと、皆のため…では無く、私自身が、一番この頃の思い出に回帰したがっていたのだろう。

9月の焦燥感も抜けて、新たな撮影旅に出たいと思う、終電での帰宅だった…。

(写真:先生を囲んで…)

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2009年8月29日 (土)

ただの風邪でしょ?!

春先からの流行で、世間を戦々恐々とさせた新型インフルエンザが今、再びの猛威をふるい始めた。

ワクチン不足を懸念して、外国からの輸入で対応するようだが、日本と生成法の異なる輸入製剤…。過去の轍を踏まなければよいのだが…。

“パンデミック”などと言う言葉が盛んに用いられた春、弱毒性と言われたにも拘らず、マスクが店頭から消えたあの軽挙妄動を、私は些かの忌々しさで眺めたものだ。

と言うのも、新型インフルエンザが蔓延したあの時季に、写真展を開催してしまった私の元には、「外出を控えたいので…」と、ご来場頂けない旨の連絡が、個展開催の前から幾つか寄せられていたのである。

まぁ、そんなことも“喉元過ぎれば…”で、猛暑の夏を迎えると、新型インフルエンザのその感染力は、ひとしきり収束を見た。少なくとも、そう思っていた。

ところが、此処に来て急に、一人、二人と新型インフルエンザによる死者が出て、政府が色めきたったのである。

俄かに緊急有識者会議などが開かれ、輸入製剤についての扱いをどうするか、厚労大臣を中心に議論された。

しかし、それを聞いて世の人々は、びっくりしなかったのだろうか?

私は、春先の流行時に、こんな話は既に一定の対処ルールが取り決められていると思っていた。

それが、あと二日も経てば、閣僚の顔ぶれがガラッと変わってしまいそうな内閣で議論されているとは…。

≪え、何も決まっていなかったの?≫、≪治験プロセスを省くだって?!≫、そんな驚きである。

尤も、舛添大臣だからこそ、有識者会議をメディアに公開したのだろうコトは評価できるが、あの流行から三ヶ月以上も時間があったと言うのに、国民が死ななきゃ動き出さないこの国は、少しオツムが足りないのではないだろうか…。

基本的に、弱毒性のただの風邪である事をそっち除けに、メディアも、感染拡大の憶測ばかりを報道し、いたずらに群集心理を煽っているが、今頃、対策会議を開いている政府の愚鈍さを糾弾する論調がもっと欲しいところである。

“総理に一番近い男”と言われる舛添厚労大臣が、この程度である。どれだけ足りないオツムが敷いてきた政策の中でニッポンという国は弄ばれたのだろうか…。

ダメもとでも一度、政治を担う顔ぶれを一新したいと望む風潮は、もはや、自然界の自浄作用の一つなのかも知れない。

でも…、本当に「ダメもと」では、ちょっと困る。。。

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2009年8月13日 (木)

繊維の崩壊

タモリの話だったろうか…? 以前テレビ番組の中で、“繊維”の話題から、「若い頃、気に入ったパンツをずっとはいていたら、ある時、洗濯の途中で一気に崩れた…」と言った。

「崩れるって?」と俄かにその文脈が理解できずにいたが、何でも繊維は、耐久年限を過ぎると、ある時突然、全体がボロボロに崩れるのだそうだ。

雑巾などで、なんとなくは想像がつくだろう。

汚れては洗って乾かし、また汚れて…と少々手荒い扱いの中で、雑巾はあっという間に“しょう”が抜けた状態になる。

パンツの崩壊はその急激版のようで、それまで普通にはいていたモノが、ある日突然、洗濯機から出したら熊手で引き裂いたように原型を留めていなかったようだ。

「へぇ~」と言うほか、どうしようもない話だったが、要は、パンツ一丁で活躍している芸人の、そのステージ衣装(?!)が崩壊する日も近い…といったオチであった。

ところで、私には数年前から、ずっと好んで使い続けているタオル地のハンカチがある。

いや、“好んで…”というのはちょっと語弊があるか…。 と言うのも、母が危篤で、病院から呼び出された朝、≪きっと泣くな…≫と思ってカバンに押し込んでいったハンカチなのである。

結局、その夜、何よりも役に立ったハンカチだったが、以後7年半…、よく我が悲しみや切なさを拭き取ってきたシロモノとなった。

このハンカチをやたらとご贔屓にしたのは、それを見れば、あの時以上に悲しくて、苦しく切ない経験などそうは無いだろうと、自らを鼓舞する意識が働いたからだろう。

そんなハンカチが、34日前、洗濯機の中で見るも無残にザクザクに崩れた…。

工エエェェ(´д`)ェェエエ工工~!!!

≪これが繊維の崩壊か…≫と冒頭の話を思い出したが、“これ以上の悲しみはあるまい”と鼓舞し、我が切なさを拭い続けたハンカチが無くなった今、その喪失感を拭い去るものが無い現実に、得体の知れない喪失感が襲っている…。 アァ…(*_*; ショックゥ~ 

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2009年7月31日 (金)

事件に遭う人

千葉でストーカー被害に遭っていた女性の母親が殺害され、女性自身もストーカー男に拉致、連れまわされる…という事件が起きた。

数日後には沖縄でストーカー男は逮捕、女性は保護…と、一件落着を見たが、テレビでは連日のように犯人像を映し出して大きく扱っていた。

しかし…である。≪こんな感じの男が?≫と、その気弱そうな容姿に、凶行ぶりが結びつかず、人というのは、本当に見かけでは分からないものだとつくづく感じたものだった。

ところで、この事件…。 

そのあらましを聞くと、首を切られて死んだという母親が何とも哀れになる。

何しろ、娘がストーカー男に付きまとわれるようになったそもそものきっかけが、「出会い系サイト」だったからだ。

出会い系サイトを100%否定するつもりは無いが、不特定多数の男女が、恋愛相手を求めて書き込むインターネット上の伝言板のようなその機能には、これまでもその匿名性から、性犯罪や凶悪事件の温床になっていることが、再三指摘されていた筈だ。

一方で、そんな危ういWebサイトであっても、自らアクセスさえしなければ、関わることはない世界でもある。

つまり、被害女性は自らハイリスクの謳われている危うい世界に首を突っ込み、安直なプラトニックを求めた挙げ句、母の惨劇と、自らの危機を招いたと言わざるを得ない。そんな事実に気付いた時、彼女の背負っていく十字架の重さが如何なるものか…、誰にとってもやりきれない事件だった気がする。

世の中に「ストーカー」なる名称を知らしめた事件の一つに、埼玉の桶川で起きた女子大生刺殺事件がある。

男の付きまといに恐怖をなした女子大生が警察に届け出たにも拘らず、等閑な対応の果ての惨劇に、世論は警察組織への非難に明け暮れたが、被害女性がストーカー男に出会ったきっかけは、風俗業でのアルバイトだったという話は意外と知られていない。

ラブホテルでの受付嬢だったとも、被害女性自身が風俗嬢だったとも言われているが、いずれにせよ、“普通の女子大生”ではなかったわけだ。

尤も、風俗嬢だったら殺されても仕方が無い…などと言うつもりは毛頭無い。…が、それでも、こういう事件を見るにつけ、“リスク”ということへの意識の低さに呆れてしまうのである。

普通の女子大生は、普通に暮らしていればヤクザな稼業の人々と接点が生まれる筈が無い。また、ちょっと新聞に目を通していれば、出会い系サイトがどんな犯罪の温床であるか、「出会い系サイト」そのものを知らずとも、それがアンタッチャブルな領域であることは容易に知れる。

“事件に遭う人”というのは、なんとなく≪飛んで火にいる夏の虫≫になっているコトが多いのではないだろうか、そんなことを思う事件だった。

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