祈りの島めぐり、五島列島の旅 (11)
昨年9月、旅仲間のSと共に訪れた五島列島では、列島西南寄りの福江島を中心に、久賀(ひさか)、嵯峨(さがの)、奈留(なる)と、“下五島”の島々を次々と渡りながら、はるか昔に日本に根付いた“キリシタンの祈り”を探して、教会めぐりを重ねたのだった。 本来、人の心を救済する筈の「信仰」が、往時の為政者の下、異物(異教)排除の迫害と激しい弾圧を生んだ。 結果、多くの殉教者を出し、その最期の惨たらしいことこの上なく、≪人は、同胞に対してどれだけ残酷になれるのだろうか…≫、そんな事を度々心に問う旅となった。 何より驚嘆を覚えたのは、日本のこんな西の端っこに、これほど多種多様な教会を擁した島が在ったという事だ。 訪れるまで皆目知らなかった“教会列島”の五島に、多くの迫害と弾圧の中でも滅することなく、今日まで引き継がれた信仰の根深さを見て、信ずるところのモノというのは、どんな外圧をもってしても取り上げられるものではない事を、しかと感じ入ったのであった。 大小二つの「中通(なかどおり)島」と「若松島」からなる上五島は、島民の悲願とも言われる「若松大橋」で陸路結ばれており、どちらからの上陸でも構わなかったが、レンタカーの利便性から中通島(奈良尾港)を選んだ。 〔地図左:上五島全体図/右;上五島南部、奈良尾地区と若松地区拡大図〕 先に福江島でも見た巨木の“アコウ樹”や、米山(こめやま)展望所でリアス式の複雑な海岸線を遠望してから、いざ怒涛の教会めぐりを始めた。 時計は既に15時を回っていたが、夕陽に向かって走る子供のように、行けるところまで西へ西へ…という感じだった。 このとき訪ねた教会は以下の通りである。 「高井旅(たかいたび)教会」、「福見教会」、「若松大浦教会」、「中ノ浦教会」、そして「土井ノ浦教会」。 外観は、白壁に真っ赤なトンガリ屋根の近代的な教会で、一見、私たちが求める“隠れキリシタンの痕跡”は望めないと思ったが、教会の説明看板には、“徳川幕府のキリシタン迫害が厳しかった1850年ごろ、長崎より安住の地を求めた3家族が小舟で五島灘を渡ってきて始まった”旨、記されていた。 深く沈黙を守って信仰を通したこの地域の隠れキリシタンが、信教の自由の下、その“隠れ”をかなぐり捨てたのは、昭和も13年が過ぎた1938年頃のことだという。 当然、代替わりもし、信仰の裾野も広がっただろうが、その時、信仰復帰を果たしたのは100名にも上ったというから、この高井旅地区とは、実に長い間、大勢で潜伏を誓った根強いキリシタン集落だったと言えよう。 それは、信仰を貫き通した信徒の歴史を象徴しているようで、何とも印象的な光景であった。 さて、次に訪れたのは「福見(ふくみ)教会」だった。 高井旅から1kmも離れていない、すぐ東隣に建つ教会で、こんな近くに隣接するのが不思議な感じだったが、集落ごとに教会を持つのが信徒の悲願だったのだろう。 先の教会に比べ、その外観は創建往時を偲ばせる赤レンガ造り。歴史そのものを滲ませた「天主堂」の文字に、この教会にも多くの物語が語られているに違いない、そんな思いを抱かせるのだった。 それでも他所から移住してきたキリシタンは、当初、島の先住の人々にとってはお荷物だったようである。 或る時、代官や先住民らが結託し、「幕府の手入れがあるぞ!」とキリシタンらに嘘を吹き込んだという。 慌てた移住者たちは、シケにも拘らず、着の身着のまま海へ逃げ出し、“帰らぬ人”となった。それをよい事に、隠れキリシタンらの家財や家畜を根こそぎ奪い取った…、そんな悲劇も語られているのだ。 多くの隠れキリシタンが、締め付けを苦に神道に改宗していく中、この地では殆どの住人がその信仰を棄てずキリシタンに帰依、一途に祈り続けたのは、こうした先達の悲劇の上に築かれた集落だったからなのだろう…。 教会は、明治15年(1882年)に創建。しかし二年で大風の為に倒壊し、次に再建が叶ったのは大正2年(1913年)の事だという。再建の許可や資金面で、大変な苦労があったということだった。 この外観からは当然、柱とアーチのリブ・ヴォールト天井(コウモリ天井)だと思ったが、船底のような「折上げ天井」という造りだった。 「アーチじゃないんだ…」と意外な印象であったが、壁面の窓と祭壇奥の天使のステンドグラスが異国情緒を醸し、しばし、そこが日本である事を忘れた。 一説には、創建当初は、ヨーロッパの教会建築を模してコウモリ天井だったが、再建時に「折上げ」になったと言われているが、定かではない。 堂内から出ると、空一面に広がった鱗雲が秋の訪れを感じさせた。 同じ歴史を語りながらも、異なる時代の立派な教会を二つ見てきた後には、この木造単層の教会は実に質素なものであった。 大正15年に民家を借り受けて聖堂化したという教会は、屋根に十字架が無ければ、ちょっと見過ごしてしまう。 しかし、そんな小規模な教会ながらも、周囲に敷かれた玉砂利に雑草は無く、多くの手がかけられている様子で、ひなびた中にも信徒の方々の愛着を強く感じる教会だった。 上五島に来てから、見事なコウモリ天井の教会を見ていないが、代わって「折上げ天井」といわれる“船底”様のものが多く見られ、その折上げの代表的な教会がこの中ノ浦であった。 列柱の上部、折上げになっている部分に、五島を代表する花の「椿」が漆喰で描かれているのである。 天面にも椿が描かれ、地は淡いピンクで塗られている。実に乙女チックな印象…と思ったら、この教会の主たる保護者(神社で言う御神体のようなもの)は“乙女、聖マリア”だった。 なるほど、やわらかな女性的イメージが満載な訳である。 キリシタン迫害の悲壮感は既に無く、中ノ浦教会は全体として瀟洒な優美さに満ちていた。 中ノ浦の畔に建つこの教会は、対岸から眺めると、水面にその姿を映して美しいといわれるが、あいにく風があり、綺麗に眺めるコトができなかった。 時間が許せば、改めて来ることにして、暗くなる前に一路、若松島へと渡った…。
「高井旅」は当初、訪問予定に入れていなかったが、その変わった名前に心惹かれて立ち寄ることになった。
素晴らしく澄み渡った空に、一筋の雲が道のように連なり、両手を広げるイエス像、そしてこの高井旅教会へと続いているように見えた。
説明看板や諸々の資料に拠れば、此処もまた江戸時代にキリシタン迫害から逃れてきた5人の移住者によって始まった信仰集落とのことだった。福見地区は現在も住人の98%がクリスチャンというから、実に敬虔である。

此処には10分ぐらいの滞在で、すぐ次の「中ノ浦教会」へ向かった。
創建も大正14年で、それまでの“信仰の自由”ばかりを求めた時代からはひと波過ぎ、ただひたすらにヨーロッパをお手本にした教会造りから、五島独自の祈りの場としての意匠を凝らしたくなった頃なのだろう。






























































































































































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